夏の木の感情空に漂へり 生駒大祐

NHK俳句6月号 小澤實

夏の木の感情」に違和感を持たれる方が少なくないと思います。感情は人間のもののはずです。ほ乳類などの感情までは広げてもいいかもしれません。しかし、植物の感情まで広げるのは、常識的にはむつかしいと思います。

しかし、ぼくはここにアニミズム的な自然観を感じ取りました。植物である木に人間的な感情を感じとる。これはアニミズムであると思います。中沢新一アニミズムについて次のように述べています。

「インディアンや縄文人の思考はこうです。「宇宙をあまねく動いているもの」これをかりに「霊」と呼び、英語では「スピリット」と呼ぶことにしましょう。このスピリットは宇宙の全域に充満して、動き続けている力の流れです。その「動いているものが立ち止まるとき、そこに私たちが「存在」と呼んでいるものがあらわれます。立ち止まり方が堂々として、何千年の単位で立ち止まっているものは石と呼ばれ、二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、木というものになります。りっぱな木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものではなく、その背後に流れている大いなる「動いているもの」に向かって祈りを捧げるのです。同じようにして、四本の足を持って地上を動くことのできる形で数十年立ち止まることになれば、それが動物になる。空を飛ぶ鳥になるスプリットもある。もちろんそこには人間もいます。」

「夏の木の感情」という表現に中沢アニミズム論の木を見た際のインディアンの行動と似通ったものを感じたのです。大祐は木の背後に流れている「動いているもの」を「木の感情」と捉えているのではないかと思いました。感情という眼には見えないはずのものを「空に漂へり」と描きとっているところにも、「動いているもの」とたしかに感得していることを確かめえました。

天の川星踏み鳴らしつつ渡る

天の川を星を踏み鳴らしながら渡っています。

「星踏み鳴らし」が楽しいです。が、先の中沢の説く宇宙に充満して動き続けるものと作中主体が同化しているのを感じます。これもアニミズム性が濃い。

ひぐまの子梢を愛す愛し合ふ

これはひぐまの子と木の梢とが愛し合っているのです。熊の子と梢双方の奥にある「動いているもの」が共鳴しているのです。若手作家の中で大祐は、もっともアニミズム性が濃いと思っています。