礫多き川原に湧き湯草紅葉

2021年10月16日文芸選評 小澤實選 

「小石の多い川原をはだしで歩いて湯につかりに行く景ですね。足裏の感触を捉えた句は珍しいです。「礫多き」というところに注目しました。」

「礫」という言葉の発見→NHKTVの「自然百景」で北海道のある川の礫川原を見たことによる。「礫」は句作りのキーワードになると感じたが、その通りであった!まことにうれしい!!

 

 

 

 

八月の俳句

八月の赤子はいまも宙を蹴る 宇多喜代子

八月がくるうつせみうつしみ 寺井谷子

象の背を箒で掃いて終戦日 大木あまり

どの家も道につながり盆の村 小泉啄葉

南から骨の開いた傘が来る 鴇田智哉

ゆつくりと西より雨や絵燈籠 宇佐美魚目

岐阜提燈瀬音の中に点りけり 辻恵美子

夕風へ背襖二枚門火焚く 奈良文夫

草色の大きな月や送り盆 中山世一

ひぐらしや遠い世界に泉湧く 宇井十間

蜩や山のプールに杉の影 森潮

口吸へば魚臭きや昼花火 間村俊一

桃食ひしあと吹く風に身をまかす 村越化石

髪白くなるうつそみや星の恋 藺草慶子

 

七月の俳句

やはらかく胸を打ちたる団扇かな 片山由美子

一瞬にしてみな遺品雲の峰 櫂未知子

老の肘さむくてならぬ夏の雨 辻田克巳

ばつてらや川筋は灯のなつかしく 山尾玉藻

手に取りて木曽の檜の椀涼し 稲畑廣太郎

カバのデカ死んで日本の油照 坪内稔典

日盛や動物園は死を見せず 高柳克弘

少年の雨の匂ひやかぶと虫 石寒太

晩年や夜空より散るさるすべり 鍵和田秞子

かなぶんに好かれて女盛り越す 岸本マチ子

ハンモックより過ちのごとく足 仲寒蝉

炎天のビールケースにバット挿す 榮猿丸

テーブルに七味散りをりかき氷 小野あらた

学会の夜のホテルに泳ぎけり 杉田菜穂

アイヌの神謡

アイヌの世界で重要な動物は熊と鮭で、鹿も重要な食料となる動物です。アイヌの神話では、さまざまな動物の霊が大きな働きをしていて、動物の世界と人間の世界を自由に行き来しています。アイヌの人たちの言葉で、神はカムイと言いますが、そのカムイは最高のスプリットから小動物の体に住む小さなスプリットや竈の霊まで、まことに多様です。

フクロウの神は、フクロウの姿をした動物の毛皮の中に入ったり抜け出したりします。スプリットがフクロウのお面をつけて羽根のついた衣装を着ると、そのままフクロウになるのです。そして、この衣装を脱ぎ捨てると、姿形を持たない動物霊に戻っていくと考えています。ですから、アイヌの人たちは動物を捕まえて、殺して食べるとき、動物の霊を送り出す儀式をしました。亀や魚やあらゆる動物の送りをしますが、とりわけ有名なのが熊祭です。どこに送り返すかというと、もともとの動物霊の国へ送り返すのです。

動物霊の世界から人間の世界に向かって、気のいい霊が熊のお面を被り熊のコートを着て出てくる。人間はこれを射て、食べ物や毛皮にします。これを、アイヌは神様の世界が人間の世界に贈り物をしているというふうに理解しました。霊が熊のお面をつけて、肉と皮を人間の世界に背負って贈り届けてくれる。だから、この霊を神様の世界にちゃんと送り返してやらなきゃいけない。ちゃんと送り返さないと、もうこの次には贈ってくれないかもしれない。ですから、エゾの人たちもアイヌの人たちも送りということを非常に真剣にやったのでしょう。亀でも魚でも、どんな動物に対しても盛大な儀式をやりました。

アイヌの熊祭では、熊の皮と肉を背負って人間の世界にやって来た動物霊が、その皮を脱ぐための苦痛にみちた手続きが必要です。まず矢で射られなければなりません。その時、熊の霊は体が熱くなって気を失うのですが、少しして自分の霊が祭壇に祀ってある熊の頭骨の、耳と耳の間に座っているのにハッと気がつくと言われます。見るとお祭りがおこなわれていて、人間たちが自分のことをものすごくもてはやしてくれている。自分をほめそやしたり、お酒を振る舞ってくれたり、踊ってくれたり、儀式をしてくれたりする。「これはいい人たちだなあ。ひとつ神様の世界に戻ったら、人間というのはいい人たちだったと報告して、また次に肉と皮をお土産にして持って行こう。」という気になるように、そういう儀式をするのです。こういうふうにスピリット(意識)というものが動物、人間、神の世界を行ったり来たりするわけです。

アニミズム俳句 小澤實選

凍蝶の己が魂追うて飛ぶ 高浜虚子

採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり 飯田蛇笏

人来ればおどろきおつる桐の花 前田普羅

蟋蟀が深き地中を覗き込む 山口誓子

雪片のつれ立ちてくる深空かな 高野素十

何もかも知つてをるなり竃猫 富安風生

落葉松はいつめざめても雪降りをり 加藤楸邨

秋の暮尿瓶泉のこゑをなす 石田波郷

泥鰌浮いて鯰も居るというて沈む 永田耕衣

おおかみに蛍が一つ付いていた 金子兜太

冬薔薇や賞与劣りし一詩人 草間時彦

・草間時彦(1920~2003年)サラリーマン俳句、グルメ俳句

金魚赤し賞与もて人量らるる

冷え過ぎしビールよ友の栄達よ

土用鰻息子を呼んで食はせけり

畳屋の肘が働く秋日和

秋鯖や上司罵るために酔ふ

秋風や昼餉に出でしビルの谷

台風や四肢いきいきと雨合羽

障子貼る母の手さばき妻の敵

水洟や仏観るたび銭奪られ

ぼろぼろな花野に雨の降りつづけ

しろがねのやがてむらさき春の暮

木蓮や母の声音の若さ憂し

葛切やすこし剰りし旅の刻 あまりし

妻ふくれふくれゴールデンウイーク過ぐ

とろけるまで鶏煮つつ八重桜かな

大粒の雨が来さうよ鱧の皮

朝寒のベーコン炒めゐたりけり

白湯一椀しみじみと冬来たりけり

味噌汁におとすいやしさ寒卵

 

夏の木の感情空に漂へり 生駒大祐

NHK俳句6月号 小澤實

夏の木の感情」に違和感を持たれる方が少なくないと思います。感情は人間のもののはずです。ほ乳類などの感情までは広げてもいいかもしれません。しかし、植物の感情まで広げるのは、常識的にはむつかしいと思います。

しかし、ぼくはここにアニミズム的な自然観を感じ取りました。植物である木に人間的な感情を感じとる。これはアニミズムであると思います。中沢新一アニミズムについて次のように述べています。

「インディアンや縄文人の思考はこうです。「宇宙をあまねく動いているもの」これをかりに「霊」と呼び、英語では「スピリット」と呼ぶことにしましょう。このスピリットは宇宙の全域に充満して、動き続けている力の流れです。その「動いているものが立ち止まるとき、そこに私たちが「存在」と呼んでいるものがあらわれます。立ち止まり方が堂々として、何千年の単位で立ち止まっているものは石と呼ばれ、二百年ぐらいの単位で立ち止まったスピリットは、木というものになります。りっぱな木や石に出会ったとき、インディアンは石や木そのものではなく、その背後に流れている大いなる「動いているもの」に向かって祈りを捧げるのです。同じようにして、四本の足を持って地上を動くことのできる形で数十年立ち止まることになれば、それが動物になる。空を飛ぶ鳥になるスプリットもある。もちろんそこには人間もいます。」

「夏の木の感情」という表現に中沢アニミズム論の木を見た際のインディアンの行動と似通ったものを感じたのです。大祐は木の背後に流れている「動いているもの」を「木の感情」と捉えているのではないかと思いました。感情という眼には見えないはずのものを「空に漂へり」と描きとっているところにも、「動いているもの」とたしかに感得していることを確かめえました。

天の川星踏み鳴らしつつ渡る

天の川を星を踏み鳴らしながら渡っています。

「星踏み鳴らし」が楽しいです。が、先の中沢の説く宇宙に充満して動き続けるものと作中主体が同化しているのを感じます。これもアニミズム性が濃い。

ひぐまの子梢を愛す愛し合ふ

これはひぐまの子と木の梢とが愛し合っているのです。熊の子と梢双方の奥にある「動いているもの」が共鳴しているのです。若手作家の中で大祐は、もっともアニミズム性が濃いと思っています。